バブル景気を経済学の定義で言うと、「実体価格を超えた資産価格の上昇に伴う加熱景気」のことです。
バブルとは、日本語に訳すと「泡」です。
経済が実力以上に泡のように膨らんではいるけれど、実態が伴わず、はかなくもすぐに弾けてしまうことから、この比喩が使われています。
目次
バブル景気とは
1980年代後半の日本で、株や土地などの資産価格が実態を超えて大幅に上昇するという現象が始まりました。
日本の土地や株の価格は異常な伸びを示し、本来の実力とはかけ離れた価格まで上昇を続けました。
1986年12月~1991年2月までの51カ月の時期に起きた、この資産価格の異常な上昇と好景気のことを「バブル景気」や、「平成景気」、「平成バブル」といいます。
この時期人々は、高級ブランド品やゴルフ会員権、リゾートマンションなどの不動産をこぞって買い漁り、バブルの絶頂期の1989年12月29日には、日経平均株価が3万8957円という高値が付きました。
日本全体が好景気に浮かれていた時代です。
なぜバブル景気は起きたのか
では、このバブル景気が起きた原因は何だったのでしょうか。
プラザ合意
1985年9月に、ニューヨークにある「プラザホテル」というホテルで開かれた5カ国蔵相会議(5G)において、ドル高是正のための合意がされました。
これを「プラザ合意」といい、これが日本のバブル景気のスタートだったと考えられています。
約30年前の当時、様々な要因が重なってドル高が進んでおり、アメリカの経済は停滞していました。
一方で、日本の経済はどんどん発展し、安くて品質の良い日本製品が、アメリカへ大量に輸出されていました。
「ドル高」ということは、アメリカの企業が輸出で海外に製品を売るときの価格が高くなるので、輸出産業は不振となり、アメリカの貿易赤字(輸出ー輸入がマイナスの状態)は膨らんでいきました。
そこでアメリカは、自国の経済利益のためドル高を是正すべく、アメリカ・フランス・イギリス・ドイツ・日本の先進5カ国による秘密会談を設けました。
アメリカ1国の経済が、世界経済に与える影響力は甚大だったため、各国は対ドル相場の調整に合意しました。
先進5カ国はドル安に誘導するため、各国の中央銀行が保有するドルを大量に売り出し、協調して為替介入を実施しました。
日本の場合はドルを売って円を買うので、円の需要が高まります。
その結果、円の価値は上がり(円高)、相対的にドルの価値は下がります(ドル安)。
プラザ合意前は240円レベルで推移していた米ドル/円は、プラザ合意の発表後わずか1日で20円以上も下落し、215円台に突入するほどの急激な円高が進みました。
円高不況へ突入
プラザ合意以降、日本では急激な円高が進み、1987年末には1ドル120円台に突入しました。
円高によって日本製品の国際競争力は低下し、アメリカ経済を立て直す協力をしたことで、今度は日本の輸出産業が大打撃を受け、日本経済が円高不況に陥ることになったのです。
円高不況対策の金融緩和政策
この円高不況への対策として、金利を引き下げるという金融緩和政策がとられました。
当時はまだ公定歩合を操作することで金融政策を行っていたので、日本銀行は1987年2月までに5回の公定歩合の引き下げを行いました。
金利が低くなると、企業が銀行からお金を借りやすくなり、借りた資金を元手に新しい工場を建てたり、新たなサービスを始めたりをしやすくなります。
政府は低金利政策で、民間企業の投資を後押しすることで景気の回復を図ろうとしました。
ところがこの時、低金利で喜んでお金を借りて、株や土地に投資する企業が続出しました。
当時の日本には、「土地神話」という象徴的な言葉があり、「国土の狭い日本は土地が限られている。土地は貴重だから価格は必ず値上がりする。だから、土地を買えば必ず儲かる!」と信じられていたのです。
不動産の価格はみるみるうちに上昇し、当時、「東京の山手線内の土地価格でアメリカ全土が買える」というようなあり得ない話が、まことしやかに言われていたのです。
企業は保有する土地や建物を担保にお金を借り、それで土地を買います。
そして今度はその土地を担保にして、また銀行からお金を借りて新しい土地を買う、というサイクルを繰り返していった結果、まさに泡が膨らむようにして土地の価格が急激に高騰しました。
個人も金利が下がったので、預貯金よりも資金が増える株や土地の売買で儲けようとしました。
これは当時「財テク」と呼ばれ大流行し、投資家だけでなく、今まで投資をしたことのない一般のサラリーマンも、こぞって株や不動産を買うというブームが日本中を席巻します。
株や土地の投機的な取引で大儲けした人も続出し、こうして日本全体が空前絶後の好景気に沸いていったのです。
バブル景気の終焉
しかし、しょせんバブルとは夢や幻のようなものなのです。
バブル景気の真っただ中では、ほとんどの人にバブルという認識はなく、弾けたあとに「あれはバブルだった。」と気が付くのです。
天井知らずのように行き過ぎた土地価格の上昇を抑えるため、政府と日銀が対策を行います。
不動産融資総量規制
1990年3月に、当時の大蔵省が銀行に対して、土地の売買に関するお金の融資を規制する「不動産融資総量規制」を設けました。
これにより、土地の売買を行う不動産業者に対して、銀行がお金を貸す割合が規制され、土地を買いたい人にお金を貸せなくなったのです。
日銀による金融引き締め政策
公定歩合は2.5%から、翌90年には6%にまで急激に引き上げられました。
金利が大幅に上がったことから、銀行からお金を借りるのも難しくなってしまいました。
土地価格の暴落、バブルの崩壊へ
政府と日銀が行った景気過熱対策の結果、値上がりしすぎた土地は買い手を失い、需要がなくなっていきました。
お金を借りて不動産を買った人たちは、本当に不動産が必要で買ったのではなく、高く売って儲けるという投機目的であり、不動産を持っていてもしょうがないので、値下げをして売ることになります。
しかし、土地は値下げをしても売れなくなり、土地の価格は暴落していきました。
株も同様に買い手を失い、株価もみるみる下がっていきました。
本業をおろそかにして、投機目的で銀行から多額の借金をしていた企業が軒並み潰れていき、倒産した企業に貸していたお金は回収できずに、銀行の「不良債権」になりました。
銀行は多額の不良債権を抱え、経営が苦しくなっていきます。
企業も経営状態が悪化し、給料やボーナスは減ります。
こうしてバブルは崩壊したのです。
その後は、「失われた20年」という長い経済停滞の時代に入っていくことになります。